部落解放同盟古市支部元支部長(元奈良市協副議長、元県連統制委員)
中川氏(通称・吉田)問題についての最終見解<再生への決意>


2006.12.27
部落解放同盟奈良県連合会

 はじめに―中間見解の後で
 わが県連は去る11月7日、標記の問題についての「中間見解」を明らかにしたところですが、あくまでそれは事件の全容が未だ明らかでない段階のものでしかありませんでした。また、それに先立つ10月27日には中川氏を除名処分相当と決定、最終的な決定を中央統制委員会に付託したところです。それからすでに二ヵ月余りが過ぎ、一連の事実関係もほぼ明らかになってきています。
 「中間見解」でも示したように、わが県連の負うべき社会的責任ならびに道義的責任は、中川氏がわが県連の三つの地位・役職を利用して、それを己の私利私欲の維持・確保等のために利用し、結果として奈良市行政に多大の混乱をもちきたらしめたという一点にあると考えます。例の長期病気休業問題についていえば、これは一重に市の人事当局と今では18人ともいわれる中川氏と同じような職員個々との間の問題であり、わが県連がその間に介在するなどあり得るはずもない問題です。「談合」問題しかりです。市内の被差別部落には差別の結果、実に数多くの土木建設業者がひしめいていますが、そうした人々が部落外の業者をも含めたいわゆる「談合」に参加していたとして、だからといってわが県連がそれとの関係で社会的に指弾されなければならない理由はどこにもないはずです。すでに指摘されている幾つかの談合事件に、中川氏が何らか関与していたのは事実であったとしても、それは中川建設という一企業の実質的経営者としての振る舞いであって、わが県連の役職者の一人としての振る舞いでも何でもなかったのですから。
 にもかかわらず、さもそれがわが県連の何らかの関与の下に行われたかのような、そんな誤解を市民に与えかねないような発言を、記者会見等の場で繰り返した藤原奈良市長、そしてそれをまるで垂れ流しにするかのようにして報道をし続け、国民が今現に持っている部落差別意識という火に油を注ぐような結果を招来することとなったメディアの姿勢については、何とも腹立たしく残念に思っています。


 中川氏の「地位利用」問題について
 1、中川氏の逸脱行為について
 わが県連がいま全体重をかけて受け止めるべきと考えているのが、先にも述べた「地位利用」の問題にかかわってです。まず、事実関係についていえば、わが県連の奈良市支部協議会(以下、奈良市協という)と市との間では、いうところの郵便入札への移行云々については昨年のセクション別交渉以来、零細な土木建設業者の立場に立つとすれば不満や不安はあるものの、「止むを得ざること」としてそれなりの共通理解ができつつあったものと考えています。にもかかわらず中川氏は、あるいはそれを自らも認めていながら突如それを翻し、奈良市協との協議も何もないままに今年8月、自らの思いを一挙行動に移してしまったということです。「(総務)部長を捕まえておけ」等と電話で話をしたり、監理課長席の前で大きな声を出したり机を叩いたりして、その挙げ句に「セクション交渉で質問させてもらわなあかんな」等と暴言を吐いたとも伝えられていますが、だとすればそれは先に書いた同問題の経緯からしてもまったくの個人プレーであって、組織と運動の基本を著しく逸脱した行為として指弾されて当然のものと考えています。
 具体的には、奈良市が「審議会」での答申を得て実施に移そうと考えてきた入札制度改革にかかわって、中川氏がわが県連に関連する三種類の役職を利用し、市の管理職等に圧力を掛けたとされるのですから、正直わが県連も奈良市協もまるで予想だにしていなかったことでした。
 ここに改めて当該の市職員の皆さんや市当局、そして市民の皆さんに謝罪の意を申し上げるとともに、この間わが県連を信頼し、かつ連帯してきていただいた方々、そしてだれよりも全国三百万人ともいわれるわが兄弟姉妹に、心からのお詫びを申し上げる次第です。
 2、「圧力」とはいったい何だったのか
 正直、不思議に思っていることが一つあります。市と奈良市協との間に行われた、昨年の「セクション別交渉」においてすら翻らなかった問題が、今年の夏、どうして「移行延期」ということになってしまったのでしょうか。言うまでもなく審議会の答申というのは、市にとっても大変重いものであるはずです。それがどうしてああまで簡単に覆ってしまったのでしょうか。
 藤原市長のように、「運動体の圧力」をいうのは簡単かも知れません。しかしながら、前項に書いたようにこの問題はもはや動かしようのないところまで、きていたはずのものです。どうして奈良市協(議長)に相談したり、申し入れたりしなかったのでしょうか。どうして、わが県連に一報を寄せていただけなかったのでしょうか。
 セクション別交渉においては時として大きな声も出たでしょうし、野次が飛んだこともあったでしょう。しかし、大きな声や野次は労働組合との団体交渉や市民運動との交渉にあっても、ごくありふれた光景であったはずです。もちろん、わが県連や市協にも改めるべき点はあるはずですが、それを考慮してなお解せないものがあるように思えてなりません。一体何故、市の方針がねじ曲げられるに至ったのか、市長にはこの点に係る説明責任が何としてもあるようです。
 3、地位利用は断じて許さない
 「説明責任」。わが県連は今それを先のような意味において奈良市長に求めたいと思っていますが、その要求は直ちにわが県連にも返ってくるはずのものです。いうまでもなくわが県連は、部落差別の撤廃を求めて組織された、それも部落民自身による組織ということになります。それが今回、次のようにして世間に指弾されています。
 「部落解放だの人権確立などといいながら、その実、欲得づくで(行政に)圧力を掛け、何でもかんでも思い通りにしようとする集団、それが部落解放同盟だ。何とも、おぞましい」といったところでしょう。実際、次のような抗議電話が架かってきたりもしています。 
 「ヤクザまがいのことをして恥ずかしくないのか。だから、差別されるんや。…一生、差別しつづけるよ。犯罪、犯してるから差別され、エッタ、エッタと言われるんや。分かったか。差別し続けるから」。
 何とも腹立たしいこうした考え方の奥底に、偏見(過度の一般化)なるものの存在がとぐろを巻いているのが見えます。ただ、世間をしてそのように思わせてしまう要因をわが県連が、その運動の内部から紡ぎ出してきてしまったこともまた事実です。わが県連の解体的出直しが、今求められているのです。
 中川氏の過ちを12年間把握できないまま、彼を古市支部支部長として容認し続け、あげく彼を県連統制委員にまでしてしまった執行部の不明を、十二分に恥じなければなりません。結果としてわが県連が、彼の過ちを意図しないままであれ、下支えしてきてしまったということです。
 その理由の一つに、兄弟姉妹たちが自らのことを「100%被害者」であると錯覚してしまっているということがあります。例え部落民であれ、他人を傷付けることもあれば、他の被差別民を差別することもある。この社会が差別社会である以上、それもまたごく当たり前のことであったはずのものなのですが、にもかかわらずそういう自らの差別性には無自覚なままに自らを部落差別の「100%被害者」にまで祭り上げ、「100%被害者」の要求は常に正しく、正しいが故に常に肯定され是認されて当たり前のものという、はなはだしい勘違いが一部であれ存在し続けてきたということがあります。
 さて、そういう「100%被害者」の対極にあるのが「100%加害者」ということにでもなるのでしょうが、「100%被害者」が存在しないのと同じように、「100%加害者」というものの存在もまたありえないはずでした。
 「それが差別だ!」。寸鉄を打つがごときこうした発言が、部落差別の存在を白日の下に晒し、差別撤廃のための国民的動きを強く大きく作り上げてきたこともまた事実です。しかしながら、そうした指摘、とりわけ根拠も定かでないままに多用されてきたそうした指摘が、人々を黙らせ、人々をしてかえって差別の側に向かわせてきたことも決してなかったとはいえません。被差別者という「立場の絶対化」、それが今回の中川氏の「地位利用」を生んでしまった根本の理由だったとすれば、どうでしょう。
 「立場の絶対化」を排して、可能な限りそれを相対化していく努力、それがない限り今後この運動に未来はないとさえ思っています。


 運動と組織の根本的改革へ
 わが県連はここ10年来「両側から超える」という考え方を、何より大切にして年々の方針を打ち立ててきました。「両側」というのは、とりあえずは部落差別を「する側」と、「される側」の双方ということですが、それを「超える」というのは前項で述べた「絶対化から相対化へ」ということに同じです。
 「二つのジリツ(自立と自律)。二つのソウゾウリョク(想像力・創造力)が肝要」だとも言ってきましたし、「自治を鞏固にせよ」と強調し続けてもきました。部落差別を越えていくためには、むしろわれわれ部落民の側こそが、自らの至らなさに気付き、反社会的行為を互いに諌め合っていくぐらいでなければと訴え続けてもきました。それに、双方向の対話の重要性ということも強調し続けてきもしました。にもかかわらずそれが、現実のものになりきれていなかったということです。奈良市当局との間にもしそれらが貫徹されてあれば、そもそも今回のような事件は起きるはずがなかったのかも知れません。何とも残念でなりません。
 だがしかし、重要なのは理屈や理論ではなく、実践だと思います。
 「中間見解」でも明らかにしたように、「むしろ今回起きた一連の事々を奇貨として、部落解放運動の本来あるべき姿を求めつつ、そのために必要な諸改革を、全身全霊を以って断行していく」ということを、今回この「最終見解」においても再確認することとします。では、いったいその決意の具現化のために当面わが県連は、何をどうすべきなのか、以下それを箇条書き的にまとめてみることとします。

 1、わが県連は今月17日に学者、行政OB、弁護士、マスコミ関係者、障害者運動や女性解放運動、在日外国人教育運動の経験者等々にお集まりいただき、仮称「人権施策に関する運動と行政のあり方検討委員会」立ち上げのための準備会を開催しました。来年一月以降、月一ないし二回のペースで協議いただき、春から夏にかけて「最終答申」を頂く。
 3月11日予定の定期大会では、委員会の審議経過を来年度方針に反映させる。また、当日の午後は事件の「報告会」ならびに運動の再生に向けた「決起集会」を兼ねることとします。「最終答申」もすべて公開し、大会以降に作られる具体的方針の中にそのエキスを盛り込む。
 2、1の「検討委員会」とは別に組織内に組織改革のための委員会を立ち上げ、「量より質」を目指すための具体策を検討する。県連執行部やその他さまざまな機関のあり方、支部・市協役員の選任のあり方等について、ここで検討することとする。
 3、昨年(7月〜8月)の支部一斉点検の不十分さを反省し、今年の1月から3月にかけて第2次支部一斉点検を行う。なお、点検は支部長や役員だけではなく、できるかぎり大衆の意見を反映できるよう工夫し、同盟支部がムラにとって必要なのかどうかに遡って議論してもらう。
 4、とりあえず、年初の「支部旗開き」などで今回の問題についての「学習会」を必ず行ってもらうこととし、3と連動させる。
 5、年1回の総会開催と会計報告を義務化し、これができない支部については規定方針通り解体再編・県連直轄化の結論を県連執行委員会で判断する。
 6、1の委員会の協議を得て、弁護士有志にお世話になる形で「部落解放運動や同和行政についての情報窓口」を、県連とは独立した形で設け、情報や相談の内容に応じた形で都度課題解決を目指します。その際、プライバシーを厳守する。


 おわりに
 多くの問題点を抱えた私たちの運動ですが、その再生だけは何としても実現させていきたいと考えています。それこそこの奈良は水平社発祥の地です。「吾らは人間性の原理に覚醒し、人類最高の完成をめざして突進す」と何とも高邁な理想を掲げた水平社の綱領でしたが、かえってそれが俗人に過ぎないわれわれを不遜きわまりない人間に変えてしまったのかも知れません。今後は、「人間は勦わられるべきもんじゃあねえ。尊敬されるべきもんだ」という『どん底』のサティンの言葉や、水平社宣言にある「そしてこれらの人間を勦わるかの如き運動は、かへって多くの兄弟を堕落させた事を想へば、此際吾等は人間を尊敬する事によって自ら解放せんとする者」の運動を、それも市民運動の一環として推し進めていきたいと願っています。ご意見やご批判をぜひともお寄せいただければと想っています。

 

コメント一覧に戻る